ドクター・フー
衣食住が足りれば、あとは美学の問題だ。
もし明日、私が戦場に連れ出されたり、大災害のうちに置かれたりしたとき、頼るのは権威を鼓吹するハイカルチャーよりもむしろ、これまでの日常をなんとか持ちこたえる支えとしてきたサブカルチャーだろう。 それはジャンクなもの、音MADであり、アニソンであり、電波ソングであり、ピコ太郎であるかもしれない。
そういった日々目にし耳にし楽しんでいるものが詰まるところ何であるのかがわからないというのは、社会のなかで生きる人としてあまりに不安定じゃないか?自分の拠って立つところの美学が意識化されていないならば、その美学を他の美学との避けられない"スタイルウォーズ"のなかで、如何にして弁護し保ち育むことができるのか?消費活動であれば、個人単位の意思決定で人それぞれ好きなものを追求すれば良いだろう、だが集団単位の意思決定では何らかの美学を尺度として暗黙裡に参照しながら、議論を通じて集団としての意思を一致させていく過程が避けられない。
じゃあ、音MADの美学ってなんなんですか???(私は作者ではなくて聞く専なのであんまり大きいことは言えないけれど…)
非エスタブリッシュメントのサンプリング音楽としてヒップホップと並行関係にあることと、そのブラックミュージックに対峙しているYMO→電気グルーヴ→ナードコアとかのピコピコしたキッチュな東洋的なイエローマジック的な系譜みたいなのをでっち上げたら、これが「音MADの美学」であるとか対外的には胸を張って言えるものができそうではある。
ただし、音MADはコンセプチュアルアートではなさそう。フロクロ氏や原口沙輔氏などの音MADと深い関わりのあるボカロPや別にそうでもないボカロPが「SNS社会、物語などなく、情報の断片の集積のなかを生きる」みたいな、ポストモダン、"現代アート"的なフェチにコミットしているからといって、それと似たような感性をもつ脱出ゲームとか「展」とかがブームだからといって、音MADはコンセプチュアルアートではないと思う。というのも、ニコ動初期の音MADの金字塔たるM.C.ドナルドはダンスに夢中なのか?最終鬼畜道化師ドナルド・Mとかはたぶんコンセプチュアルアートを意図したものではないし、視聴者もコンセプチュアルアートとして受容していない、もっと野蛮なパワーの奴だったからである、たぶん。
話を戻すと、とはいえ、そういった「音MADの美学」みたいな大胆かつ石橋を叩くような文章を書くだけの集中力がないし、せっかくのmy new 労作が、たとえsome random 理屈屋メガネくんの栄養になったとしても、新たな「おもしろ動画」の出現に繋がらなかったら報われないし、なにより自分の美学を公認の歴史とかある種の誇大妄想につなげておくことを通じて自己イメージを確定させるとかいうムーヴはダサい。言い換えれば、音MADはこれまで十分な文脈があるし当然現代アートだと思うけど、その「現代アート」という響きを響かせることによってそれに詳しい自分を偉く思うのはダサい、ということ。悪しきサブカルやさんになる必要はない。いまのは自戒の意味も込めて言った。
そのうえで、ここで何をやるのかといえば、手ごろな対概念をちょっと取り出して、ガシガシやることです。ひとにめまいを起こさせる不必要に複雑な知育玩具の如き概念装置は悪しきサブカルです…
それで、ここで敢えて立ち上げる二項対立というのは、小綺麗 vs. 小汚い の対立です。
シュッとしているもの vs. 野暮ったいものの対立と言い換えてもいいかもしれません。
そして、音MAD文化は小汚い文化であったけれど、急速に小綺麗になりつつあるということを指摘し、小汚さの長所をぜひとも維持すべきと主張します。
結局この文章で言いたいことは、「シュッとしているものはよく整理されていてアイデアの実現には便利かもしれないけれど、アイデアの産出という点では野暮ったいものが有利である」ということです。このモチーフを何回も繰り返します…
小綺麗なものは書かれた言葉をお手本にしている。
そして、文明化というのは、書かれた言葉を現実化していく過程であるから、なかなか、小綺麗なものよりも小汚いものを言葉で弁護するのは難しい。ひとには文明に逆行した働きのように思われる。しかし、田舎が都市に憧れる文化、人がお金を払ってもよいと思わせる文化、権威の象徴となるような文化というのは、小汚い文化ではなく小綺麗な文化であるからこそ、つまり素朴な実感とは逆の位置にあるからこそ、小汚さは是非とも擁護しなければならないのである。
茶碗を窯で焼くときに、焼き上がった器が陶芸家が頭の中で100%意図した通りになることを、良いことととるか悪いことととるか、という問題。小綺麗さという価値観は、意図や設計図という正解に対してどれだけ接近できたかによって、序列をつけてしまう。最近のオタクの作画の良し悪しを測る尺度に似ているように思う、彼らは動きが生き生きしているかというよりも、止め絵での華麗さ、原作からのズレのなさを求めてしまっている。
シュッとしていて泥臭くないものは、抽象的なものは、秩序立っているものは、流通において大変便利ではあるだろうけれど、アイデアを実現するための摩擦は少ないだろうけれど、そこからはアイデアが湧出しづらいのではないだろうか?シュッとした再開発されたショッピングセンターはあくまでアイデアの消費地ではあるけれど、アイデアの生産地はむしろ地価の安い小汚い町並みなのではないだろうか?
似非科学であることを承知でいえば、エネルギーを扱う熱力学第一法則とエントロピーを扱う熱力学第二法則の対立、みたいな。アイデア=低エントロピー源というアナロジーをすれば、アイデアを消費して物事を実現する時のエネルギー効率においては、小綺麗な生態系が有利だろうけれど、そもそものアイデアを産出するという点ではある程度小汚い生態系のほうが有利だ、みたいなこといえない?
音MAD文化がひとつの生態系として存続し得ているのは、別々の文脈をもつ素材と曲とが合わさることでまた新たな文脈を獲得するという「ミームの有性生殖」というべき事態によって、ミームが外部環境の変化に適応できるだけの十分な連続性と変異性を持ち得たという点にあるんじゃないか?
この、くさっぱらが極相林に向かっていくように、野暮ったいものからシュッとしたものに向かっていく(洗練されていく)という文化の特性は、ある程度一般にいえることである。けれど、特にいま音MADに関して危惧しているのは、音MADのリアルイベントが流行っていることで、音MADが全体としてクラブで映える、IMAX映画のような没入感をもたらす、高音質・高画質のシュッとしたものに移行しているのではないだろうか、ということだ。つまり物質的&社会的な環境変化によって、小汚いものから小綺麗なものへと無意識に音MAD文化が"洗練"の方向に舵を切りつつあり、それは音MAD文化の土壌を生産地から消費地へと地すべり的に変化させるものなのではないか?という点である。
いちおう保険として自己批判しておくと、確かにこのイベントはそれほど高音質高画質ではないし、音MAD作者というよりも見る専のイベントだから、技術力のなさをペラで誤魔化している部分はあるかもしれない。
音MADの次に来るのは、「拡張されたVlog」だと思う
超かぐや姫やジークアクスのように、またマクドナルドや日清のCMのようにミームが商業作品に逆流してきているということは、ミームの源が、アイデアの源が尽きつつあることを示しているんじゃないだろうか。アイデアの源は究極的には現実生活から引っ張ってくるほかない。
Vtuberがリアルイベントをやり、散歩動画を撮りや事務所同期とのオフ会の様子をコンテンツにするのは、アイデアの源がネット空間だと限られているからではないか?
目で見たのとほとんど変わらないような動画を誰でもスマホで撮れるようになってたかだか10年ほどだから、Vlogには、汲み尽くされていない可能性がまだまだ残っているはず。
大雑把にいって、「なにかを書いたり計画するのをやめよう」という趣旨の怪文書になってしまった。これは自己矛盾。これからは怪Vlogとか撮ったりとらなかったりするかも。以上。